ももの花

 いつの間にか僕は、その懐かしい色だけを追っていた。
 看守の話では、最後までこの実験に耐えられたら刑期が短くなるという。けれど、今の僕にはそんなこと、もうどうでもいい。
 香りをすべて色に変換する機械――そうはいっても、たとえば黒く澄んだコーヒーの香りは、僕にとって藍より青い蒼。難しいことはよくわからないけど、人によって何色に見えるかは違うらしい。
 そんなわけで、瞬く間にいろいろな香りを嗅がされた僕は、極彩色の世界でその懐かしい色を見つけた。僕にはその色を形容する言葉がない。だから、懐かしい色。
 気がつくと、僕の周りはその懐かしい色で溢れていた。
 そしてその色は変わった。瞬時に朱く赤い血の紅に。あの時、あの瞬間、あの部屋を塗りつぶした、祖母の血の色に。
 意味のない言葉が僕の口から溢れ、明滅する視界ではあの色とこの色が、混ざり、溶けあい、限りなく黒くなる。
 手を伸ばし、僕の意識はその色を抱きしめようとしたけれど、僕の躰はヘッドギアを無理に剥がした。溢れた脳漿の色で、僕は我に返った。
 懐かしい色はあんなに早く紅くなったけれど、ゆっくりゆっくり香りに戻る。
 色も香りも形がないから、結局僕は抱きしめられない。

超短編 500文字の心臓
特別企画・香りの超短篇参加作
超短編の世界3」掲載

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