>空虹桜<
彼女は10分以内にリプライをくれる。
「おはよう。昨夜は遅かったから、太陽がまぶしいヨ――」
すぐに僕はリプライを書く。
「そんなことばっか言ってると、また遅刻するぞ――」
クリックすると彼女の声がメールの送信を伝える。効果音関係は全部彼女の声で、目覚まし代わりのケータイは、彼女の声で優しく起こしてくれる。もちろん、メールの受信を伝えるのも彼女の声だ。
「ふふふ。ありがとね――」
デスクトップだけじゃなく、部屋中に彼女はいて、僕は彼女の抱き枕と添い寝する。部屋着も寝間着も一張羅にも、プリントされてるのは彼女だ。
僕だけじゃない。彼女には万単位のファンがいて、彼らもメールを書く。でも、彼女のリプライは絶対に10分以上遅れない。
だって、全部自動返信だから。
二次元美少女「佐塚凛」
絵だってことも、彼女の声優に子どもがいることも、狡猾な課金システムも、全部わかってる。
でも、それがどうした?
すぐに僕はリプライを書く。
仕方ないだろ?
僕は恋したんだ。
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>今井モモタロー<
チ、クチャクチャ。今日もチューインガムを噛んでいるあの男。
影山。
今年、私の勤める大学に移ってきた。白髪の非常勤講師・影山。主に一学年の学生諸君を対象とする化学概論を教えにきている。
影山は甘い。
影山は、出席簿を授業の始めにまわしてしまう。影山はとくに毎回、課題を出さない。影山は、ひとりぼそぼそと喋り、学生の態度にも気を配らない。
今日も、影山が担当している講義室から、早々と学生達が抜け出していく。
影山はおこらない。影山はいつも、細い目で微笑んでいる。刻まれた目じりの皺。
講義室から、よく聴きとれない男の声が、ぼそぼそと響いてくる。彼、影山は、テキストにじっと目を落として、あるいはひとり黒板に向かって、独り言のように基礎理論を繰り返しているのだろう。
チ、クチャクチャ。講義が終わると、チューインガムを噛みながら、構内をあとにする男。
影山は多分に甘い。だけど、その甘さは、どこか不自然で、苦味の抑えられたような甘さなのだ。
だれも、本当の影山を知らないのだ。
チ、クチャクチャ。今日も、影山の講義室から、次々と学生達が笑いながら抜け出していく。
「おい、おまえ達! まだ人生の甘さしか知らない学生諸君よ!」私は彼らを激しく呼び止める。
「はあ?」「なに、何か用?」学生達は、いっせいにけげんな顔をする。
「おまえ達に、知っておいてほしい話があるぞ。」
学生達は、今やいぶかしげな表情に変わり、ある者は私をねめつけ、ある者はひそひそ隣同士で囁きあっている。
「そうだ、つまりおまえ達には、あの男・影山の本当の味がわかっていないのだ!」
と、私は叫びたい。
あああ、どうやってこの男の魅力を伝えればいいというのだ、いや、……このもどかしさがいいぞ影山!
「今野君。チューインガムでもどうだい。」「あ、はい。これはどうも……」
影山。
大学の一用務員たる私を、名前で呼んでくれるのはおまえだけだ。いや、影山は誰にも優しいのだ。学生にも、他の教授連中にも、私のような一用務員にも。
「ふむ。」「どうも……ではひとつ。」
影山のチューインガムの銘柄は、もう今は亡き十九世紀のあの名ガム社のものだ。彼はこれを一体どこで手にしているのか知れないが…… このガムは、一九六〇年代に流行ったものだ。そう、我我の青春時代…… ひとつ上の学年だった影山は、理系のトップとして将来を有望視されていた。また影山は、誰にも平等に優しく、皆に好かれていた。甘いマスクで、女生徒にも人気があった。影山は、学園闘争の終わった後、院生のうちに難解な化学の理論を打ちたて論文で発表し、一部で好評を博し、有名になった。もてはやされた。私は生物(キノコ学)の分野だったのでよくはわからない。しかし彼の性格面での甘さに、どこかで付け入られてのことだったのだろう、影山は学園闘争の首謀者一味と関わっていたという咎で学界から追いやられてしまった。その後、彼は製薬会社や医療系を渡り歩いたと聞いたが、どこもよくない噂の立つような評判の悪いところばかりだった。それも最初の数年、それ以降のことはわからなかった。彼の名を口にする者もいなくなった。(ちなみに、私は生物学界(キノコ学)で名を馳せることなく、学問は諦めた。修士号取得前のことだった。)
チ、クチャクチャ。
その影山が、再びこの大学に戻ってくるとは。あれから、もう三十年ほども経っているのだ。
チ、ッグク……
影山はチューインガムを必ず、飲みこむ。その瞬間、男の優しげな微笑みが奇妙に歪み。
私は、話さずとも、わかる。この男の甘さは、苦さに通じている。苦さに紙一重。
忘れられた男。彼には、歴史の重みがあるのだ。
サッカリアン影山。私は明日から彼のことをこう呼ぶことにした(無論、心のなかで。彼は、おそらくこの敬意に気づいてくれるだろう)。彼のサッカリズムは、今、地上のどんな男達よりも、渋い! いや甘い。じゃなくて、苦い。……
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