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作品名記述者記述日
アップルシード唸るバクテリア2004/04/26★★★

 期待値を高くしすぎていた可能性を否定することはできない。
 しかし・・・このシナリオはいくらなんでも悲惨だろう・・・

 監督とプロデューサの話によると、この映画最大のテーマは「ユートピアの崩壊と再生」であり、もう一つの見所は「オペラ座の怪人」だという。
 そもそもこの設定が間違いだ

 もちろん、これはU・Bが“今”のアニメの文脈でこの映画を見たことにも問題がある。
 言わずもがな。同じ原作者の別作品を扱った「イノセンス」である。
 必然的にというかなんというか、根底に流れる思想は同じである。「アップルシード」も「イノセンス」も。
 したがって、ここで重要となるのは「人間」である。

 主人公のデュナンは三人の女優が演じている。一人は声と顔を、一人は日常の仕草や動きを、一人はアクションを。
 今までのアニメでは見たことのない、さりげない動きや芝居が随所に見られるのはそのためだ。
 たとえば歩く姿を見て欲しい。今までの俗に言う「セルアニメ」では、1コマずつ描かなければいけない性格上、重心移動が無いか、あるいはデフォルメされている。
 しかし、歩行という運動で最も重要となるのは重心移動である(詳しくは二足歩行ロボット系サイトで)。また、空虹の話だと、歩く芝居と笑う芝居が役者にとって一番難しいらしい。
 それが見事に“人間らしく”歩くのである。これは驚きだ。
 だからこそ、こんなシナリオでは、こんなテーマではダメなのだ。

 「アニメ的」とか「マンガ的」という言葉はあまりいい意味では用いられない。が、「アニメ的」にしておけば作品世界が「架空」であることをわざわざ客に説明しなくても良くなる。いわゆるなんでもあり状態だ。
 だから、クドカンが脚本したドラマを見てもわかるように、現在の主流的な劇団のお芝居は極めてアニメ的な演出が施されている。
 さて、「アップルシード」はアニメである。しかし、その芝居は極めて人間的だ。いや“肉感的”と表現した方が正しいかもしれない。
 そのため、乖離が起こる。客であるこちらの「本物」と「偽物」の感覚が乖離するのだ。
 これによって快感を与える作品もあろうが、「アップルシード」は違った。
 おそれを知らずに書いてしまえばこうなるだろう。
モーションアクターがいないキャラクタだけ以上に浮いとんじゃゴルァ!!

 もちろん、これは芝居だけの話ではない。シナリオが決定的に浮いてしまっているのだ。そう、シナリオが映像についてきていないのである。
 もう、いちいち台詞を引用して、どこがどうマズいのかを説明する気にもなれないが、ここで冒頭に引用した「テーマ」を見直してみよう。
 最大のテーマは「ユートピアの崩壊と再生」である。しかし、見ている観客にはユートピアであるはずの「オリュンポス」がユートピアに見えない。住みたいとは思わない。
 もう一つの見所は「オペラ座の怪人」である。しかし、デュナンは見守られる人ではない。最終的に自分で道を切り開く人である。したがって、ブリアレスは、ただデュナンの邪魔をしている人に過ぎない。もっと言ってしまえば、ただの半端野郎である。

 オタクである以上、U・Bは「細部に神が宿る」という言葉を信じている。
 「アップルシード」は神が宿るべき細部が余りにも杜撰でスカスカである。たしかにデュナンのリアリティは素晴らしい。Boom Boom Satelitesの音楽は至福ですらある。けれど、あくまでもそれらはメインであって細部ではない。
 パンフレットを見れば一目である。原作者。プロデューサ。役者。映像。音楽。どこにも脚本家を語っているページはない。
 つまり、この映画にとってシナリオは二の次なのである。映像を見せることにしか意味が置かれていない。よって、プロモーションも兼ねていた最初の6分間は珠玉の出来である。
 だが、それ以降はただの駄作に過ぎない。最初の6分以降、映像になれてしまった目には、アラしか見えてこない。
 ただただ予定調和で閉じられる物語。
 どうやらpart2を作るらしいが、U・Bは間違っても見に行かないだろう。
 せめて・・・ああ、せめて光る台詞がひとつでもあれば・・・
 画竜点睛を欠いたスタッフにデュナンのこの台詞を送って本稿を閉じよう。

もっとましなこと言えないの!

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