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洋画

作品名記述者記述日
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ唸るバクテリア2024/12/06★★★★★

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誕生日で見るのに、こんなに相応しい映画はなかろうと「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」をこれまた大好きな丸の内ピカデリーのドルビーシネマで見ました。
マグマには「気違い童貞オジの失恋物語」書いたけど、これ以上でもこれ以下でもないというか、これで駄目なのか?というと、もちろん駄目じゃなくて、もうひたすらに非モテの人間にとって終盤はツラいのだ
たぶん、これが駄目だという人は、前作が好きというより、現実にぶち当たりたくないんじゃなかろうか?あるいは、ガガ様 as リー・クインゼル(=ハーリーン・クインゼル=ハーレイ・クイン)が嫌い
予告でずっと出ていたガガ様が頭を打ち抜くシーンみたいな、とち狂った自分のこと好きな女が突然現れる。なんてことは起きない。起きないんだよ。起きない。
そして、あんなタイミングでテロは起きないだろうし、あの階段にリーはいない
安心して良いのだけど、次作はない。
それはジョーカー=アーサー as ホアキン・フェニックスが死んだからではない。
一躍観光スポット化した、あのブロンクスの「ジョーカー階段」を上りきらなかったからだ
上ったのなら、また下る可能性を否定はしないけれど、上りきっていないのだから下ることはない。
劇中、示唆されるだけで、本人は自力で降りていない。おそらく警察に引き摺り下ろされた。
階段を上り直した先にリーがいる隠喩性みたいなモノを読み解き切れてはいないのだけれど、前作で踊り下った階段を今回は上ることで、あの世からこの世。あるいは、彼岸から此岸に戻る比喩を見て取る。
おそらく嘘をつくことに躊躇いがない、ナチュラルに狂ってるリーは階段を上れるのに対して、アーサーは絶望の先でしか狂えないので、狂ってる街では階段を降りることしか許されない
繰り返すけれど、アーサーは階段を上りきっていないのだ。
気合いの入ったエレベータのデザイン
たしかにミュージカルではあるのだけど、もともとアーサーの狂気はステップで表現されていたわけで、それが唄に到るのは、ある種の必然に見える。
実際、ミュージカルパートの大半は見事にアーサーの妄想として描かれる。だから、パンフでガガ様は「ミュージカル」というのを避けたと述べている。
逆説的に、事実として描かれたように見えるミュージカルパートもアーサーの妄想の可能性がある。
きっと、誰もが気付くだろう伏線。「8mile」のエミネム以来の早漏っぷりで妊娠って!とも思うし、もしかしたら書いてて気付いたけども、リーが看守を「かかえこんだ」と言ってアーサーの独房に忍び込んできたのも、「かかえこんだ」に傍点を打ってたからダブルミーニングで、やらせてやったから入れてくれたぐらいの解釈をすれば、子どもも看守の子どもじゃね?ぐらいに思ってたんだが、そもそもリーが忍び込んできたこと自体、妄想だったかもしれないのか
そうすると、もう物語の何処が真実で何処が妄想かわからんよなぁ・・・と、それも意図していたようにパンフの監督トッド・フィリップスのコメントは読める。
そもそも、オープニングのアニメが比喩的で、じゃあ、あの影のジョーカーはこの映画では誰なのか?というお話。
シームレスにつながってることを考えると、影のジョーカーの悪質さこそ、ジョーカーたらしめているモノではないか?予告で何度も見た、あの4つの傘が黒から僅かなカットだけカラーになるのも、深読みをすれば妄想と現実の混在を意識させている。
ミュージカルシーンだけが本当に妄想なのかは?前作の「ジョーカー」の混沌っぷりを引きずっている。
宇多さんの話だと妄想シーンは画角が違うらしいのだが、ここまで来ると正解はいらない。
一方、まるで死んだかのような台詞が交わされた、アーカム州立病院のジョーカー信者たる青年は、最後に己の絶望をアーサーに突き刺す。文字通り。たぶん、この映画を嫌っている人たちへの隠喩でもある。
森直人がパンフで書いてるとおり、ジョーカーはいないのだ。
青年は所詮インセルに過ぎない。狂いはジョーカーの器じゃない。このラストシークエンスはアーサーの妄想ではないかとも感じた。
ここから中盤のミュージカルシーンで、アーサーがリーに撃たれたシーンへ接続したことからもわかる。
あのシーンは、最初アーサーとリーの関係が行き着く先を暗示してるのかと思ったら、終盤の終盤に接続したので、ビックリしました。
あるいは、爆発以降のシーンはすべてアーサーの妄想であり、法廷での自白とアーカム州立病院だけが事実の可能性もある似たような解釈をさえぼー先生もしてらして、だよねぇ。とも。ファムファタル映画としての解釈は、あまり見ないので膝を打つ。
ともかく、どちらも同じだけの可能性があって、開かれていて、ただ、いずれにせよ非モテ男子として43年も生きてしまった人間としてはわかりみが酷くて辛いのだ。
これを見たくない人の気持ちはわかるけど、目を逸らすから非モテなんだぞ!見てても非モテだけど。残念イケメンアナウンサことTBS山本匠晃の感想が楽しみでもある。
そして、どうしてもこの構成は男の映画ではないか?との感慨はある。
男にとって都合の良いガガ様の感慨は拭いきれない。ただ、ちゃんとリーはしっかり一番最初にアーサーを見捨てるのだ。
その一点において信頼はできる。
この点において、マチズモの善悪を描き続けているトッド・フィリップスのフェミニズムが見える。
ただ、それは残念な男が好きな女性像でもある

で、ガガ様なのである。やはりガガ様のヴォーカル力は絶大である。
キャスティング観点でこの構成でのハーレイクインは、たしかにガガ様しか選択が無い気はする。
と思ったら、当て書きしたとかパンフで書いてるし。
もちろん、マーゴット・ロビーのハーレイクインは最高で、いつでもマーゴット・ロビーを見ていたいのだが、圧倒的なまでのボーカル力はガガ様なればこそなのだ。
下手に唄おうが上手に唄おうが、世界がどんなに女優としてのガガ様を拒絶しても、俺は女優ガガ様を肯定するし、このタイプの映画のガガ様は最高でしかないじゃないか
ヴォーカルとしての世界構築力は世界のディーヴァならばこそ。サントラ買っちゃったもの。
そして、ホアキンですよ。
タップのシーンは、ガガ様のピアノと相まって思わず拍手してしまうぐらいに素晴らしかったし、なんですか?あの体つきは。肩甲骨周りの歪な肉付きと、飢餓に陥ってるかのような腹回り。胸回りの貧素さ。
パンフ見ると、あの体はホアキンが意識的に作ったらしく、その辺の狂気もホント最高
ある意味で、この映画はリーが、ガガ様が主役なのである。だから、アーサーを見に来た人には物足りないと言えるかもしれない。
ただ、一人の中で狂っていたアーサーが周りを巻き込んでいたのが前作として、さらに強いリー、あるいはガガ様という狂気に巻き込まれたら(フォリ・ア・ドゥ)、自分のちっぽけさに戦かざるをえないんじゃないかなぁと。
そして、巻き込まれたい願望を否定しきれない身としては、あんな娘は出てこないんだよ。現実には・・・とも。
そしてなにより、麻原彰晃ですら狂いきれなかったことを思えば、アーサーが狂いきれずアーサーに戻ったのは必然だとも。
君たちは、わたしたちは、所詮凡人に過ぎない
この映画を見ていたら、己の小ささを強く感じる。
ウチの親父が「一升の枡には一升しか入らない」と言ってたけど、俺の枡のサイズは知らんが、小者は小者以上には慣れないのだ。

ちなみに、ここで嘔吐シーン?思ってビックリした記憶だけがあるんだが、ホントにあったっけ?妄想???

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