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コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ唸るバクテリア2025/11/06

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スケジュール的になかなか厳しかったのだけど「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」を東京国立近代美術館で見ました。
はぁ。と溜息をつかざるを得ないというか、わかってたのだけど辛くて、見てる間何度も下唇を噛む。
もしかしたら、これからこんな阿呆なことに巻き込まれるのかもしれないと思うと、それだけで憂鬱でこの上ない。
<font size="7">阿呆どもみんな滅びろ!</font>としか言えない。

ご存知「八紘一宇」と同時期に「一視同仁」をこの国は謳っていた。
「すべての人を差別なく平等に愛すること」と、キャプションで補足されている。

静かな怒りを感じるキャプション
字義通りに取るならば、この国の戦争したい人たちは心意気を失っていることになにを感じるのか?
感じないだろうけど。馬鹿だし。
実際に統一は計られる。
侵略として
サラリと李香蘭の名前も出てくるし、五族とか、ちょっとしたファンタジーのガジェットみたいな言葉が踊る。
「民族協和」と言い換える狂気。
馴染ませることと、洗脳することや侵略することに違いはあるのか?
北川民次「ランチェロの唄」のような隠喩しか許されない世界。
美辞麗句は罪になる。
美術史における文学は戦争によって詩が力を得たと分類する。
戦争の口実であっても、作られた作品や言葉に罪は無い。
空虹さんがこないだ
> 「玉砕」を「美しい言い換え」とか言いたがる人間の言語センスには、目も当てられない。
と書いてたけど、それはどうしたって、戦後教育の感慨だろうとも思う。玉は魂につながっている。
でも、そんなことすらプロパガンダでしかないと、この展示は明確に謳う。
戦争したい人たちが憧れる、あるいは街宣車が謳う「英霊」はプロパガンダでしかない
プロパガンダの責任として国の統治者が手向けるのは、存外あるべき姿にも見えてくる。

昭和館が保有する、記憶に留めるべきポスターの吐き気がする煽りに対して、絵画作品の大半に「無期限貸与」の文字が躍る。
アメリカが接収した者を近代美術館に貸し付けているのだ。
返すでも、与えるでもなく、貸し付けている
まるで厨二病を刺激する田辺至「南京空襲」(タイトル!)
リアルを通り過ぎて完全にシュルレアリスムへ至ってしまった鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」
そんな中で、ヘッドライナたる藤田嗣治なのである。
近代美術館が大量に保持する中で、中盤から登場する藤田嗣治は「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」や「アッツ島玉砕」のような作品で、プロパガンダの片棒を担いだ事実と、担がなければならなかった事実を同時に突きつける。
地獄のような暗いタッチであっても。
あえてのように明るいパノラマな「哈爾哈河畔之戦闘」は、しかし、戦意高揚を目的に発注されている。
そのような時代を迎えてしまったら、自分は生き延びられるのか?そんなことばかり考える。
それでも大半の作品は、たしかに「良い作品」なのだ。
文脈さえ離れれば。平時の目であれば。
けれど、絶対に平時作られなかった作品。
戦後にもかかわらず、圧倒的な存在感を放つ「原爆の図 第2部 火」の異様さ。
そして、普通の人が描き残した原爆投下後の広島の記憶は、戦中であっても多様性の国家であったことを裏付ける。キュレーションする。そのアンビバレントさに、この展覧会最大の意味はあって、近代美術館がやるべき展示だと理解される。

にしても・・・こんなに物販を楽しみにしない企画展って・・・展覧会としてはお金にならんよなぁ・・・

おわりに

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