あまり好きではない美術館なのだけど、東京都現代美術館ダブルヘッダー。
先に見たのは「
翻訳できない わたしの言葉」
ワンフロアの展示だけど、素晴らしかった。
たぶん今年ベストというか
生涯ベスト級。
どうしても映像作品が多いなぁと思っていたのだけれど、
そうか!言語は他者に時間を委ねることと同義なのか!!!という、ちょっとした発見。気付き。
映像が多いせいか、テキスト起こしが持ち帰り自由で配られていて、これを読むだけでもだいぶ楽しい。インタレスティング。
そもそも、配布されているのは展示リストじゃなく作者インタヴュなのです。
このインタヴュが、読んでるだけで脳味噌のいろんなとこを刺激する。
単一言語主義という、まったく新しい概念だけど、100%毒されているかもしれない恐怖。
もちろん、自分は日本言語と北海道弁のバイリンガルなのだけれど、函館弁ネイティヴの喋りを耳にすると違和感を感じたりもする。
あくまで山の人間なのだ。海の人間ではない。
出展している5人全員素晴らしいのだけど、ユニ・ホン・シャープの「旧題Still on our tongues」の言語札モティーフクッキーのレシピはもらったし、マレウレウのマユンキキがほぼ同い歳で、神居古潭で、あんなしょうもない殺人事件があったばかりで、マユンキキを見るのはなかなかだけれど、パスポートに記名してからセーフスペースに入るというコンセプトが抜群で、しかも、展示内容も含めて、なんだかいろいろ思いに耽る。
南雲麻衣の「母語の外で旅をする」は、
言語とはなにか?を突きつけるし、ALSになってしまった新井英夫は違う。
この展示を見たU・Bが口にするなら
「ならさった」が適切な気がする。
ALSにならさった新井英夫が手と口で動くからと踊る。
身体的言語の特性は、しかし、そうでもして伝えたいことは必ずあって、それこそ「ケツ痒い」とかかもしれないけど、伝える方法を考えなければならないと思わさる。
天井でビニル膜がはためくので、ちょっとの間、じっと見入る。
これも言語なのだと展示される。
どうしても、映像作品を鑑賞するべき環境ではないから、見続けることはしないし、できないのだけど、ある程度、意図を捕まえるぐらいまではそれぞれ見て、人よりすこし早くその場を離れる。
金仁淑が滋賀県にあるブラジル人学校サンタナ学園の映像をディスプレイに映し続ける。
彼らは選択的に言語を選べるようで、おそらく違う。
そういえば、マユンキキは母語に選べなかった人だし、
選択的に英語を話さないと決めた人だし、対談していた金サジは母語が日本語で、南雲麻衣は音声日本語を母語としているけれど、
第一言語を日本手話と宣言している。
最後の最後に、直接的なメッセージが掲げられていて、「言語権」とか「継承語」とか、新たな概念だけど、しかし、超適切な日本語を見て、理解して、なにを見ていたのか腑に落ちる。
そして、最後の壁に貼られた、観覧者からの手書きのメッセージ。
日本語だけではなく、いろいろな言語で書かれたメッセージ展示が抜群だった。
友達と作った手話(凄い良い)とかさ!
言葉はとても不器用で、ほとんど大事なことは落ちてしまうけれど、言葉が無いと伝えられない。
常に死にたいと思っているけれど、同時にあなたのことを常に思っているし、常に好きな歌が頭の中で鳴っている。
なお、スタッフロールも貼られていて、そうそう。それ大事。と思う。
願わくば、展示リストにも掲載していただければ。
にしても、物販が弱い!
最後にあんな参考文献展示してたのだから、売れるものは片っ端から並べれば良いのに。
マレウレウのCD売ってるのは正解だったのだが。