いくつかみたい映画が並ぶ中、GWだし、帰りちょっと青山から原宿方面散歩しようと「
システム・クラッシャー」を見に渋谷シアターフォーラムへ。
中盤からずっと寒くて、見はじめるまでは帰りなに食べようとか考えてたはずなのに、終わってみたら外はホントに寒くて、人に会いたくないなと思ったら、ちょうどサンロッカーズ渋谷のシーズン最終戦終わったとこと出くわして、どうしようもなく、とりあえず、最初から原宿まで歩くつもりではあったのだけど、全然頭の整理がつかないまま裏道の方へ裏道の方へ歩く。
表参道の一本手前の小道は、たしかにあまり人がいないけど、人がいる気配に溢れていて、お洒落な感じとか、匂いとか、音とか、この国はやっぱり平和だな。とか思う。
そして表参道にぶつかり、また、人の多さに面食らう。
当然わかっていたことなのだけど、当初の想定通り、甥っ子のことを考える。
「トラウマ」というエクスキューズが与えられていることに、多少の狡さを感じる。
そうそうこうだった。
甥っ子とのやり取りの中で似たような経験がある。
彼は高校を中退した。
「 思い上がりだった 」
ミヒャ as アルブレヒト・シュッフの台詞が心に刺さる。
たしかに思い上がりに違いない。
コロナ禍ちょっと前に、正月ちゃんと帰った方がいいかな。とか思ったのは、彼のことがあったからだ。
そして、この映画は甥っ子に見せた方がいいのかな?とか考えた自分には深く突き刺さる。
「 他の子どもたちが真似をする 」
主人公ベニー as ヘレナ・ツェンゲルの母親ビアンカ・クラース as リザ・ハーグマイスターは、ベニーを引き取れない理由として、そう口にした。
義理の弟は、たしかに同様なことを言っていたと聞いた。
自分の子どもたちに影響がある(もちろん、彼らも僕の甥っ子だ)YouTuberの喋り口を真似する。今の子どものお約束でもある。
たぶん、真似をするのは間違いない。
そもそも、「学ぶ」は「真似ぶ」だ。
原宿を裏に裏に抜けたつもりが、当然のように竹下通りに行き当たり、マリオンの前とか突き抜け、山手線まで出て代々木へまだ歩く。
映画を見ている最中、気がつくと自分のことを思い返していた。
誰がなんと言おうが間違いなく、よくまぁ、今まで人も殺さず、殺されず生き延びたもんだと、自分でも思う。
甥っ子も公共物破損ぐらいで、そこまで悪いことはしていない。
怒りの衝動みたいなモノは、制御するのが大変で、今でもアンガーコントロールに苦労する。
そもそも、アンガーコントロールなんて概念があるってことは、わりとそういう人が多いってことだ。
いつから、自分はアンガーコントロールしなければならないと考えるようになったのか?
ひとつ、明確に覚えているのは、中学の時に周りのヤツらを全員殺せばいいんだと思って、楽になったことがある。
別に誰も殺さなかったけど、その日の夜、寝る前に思って、泣きながら寝た。たしか。
すれ違った小学生が、直後に電信柱へ跳び蹴りして、ビクッとした。
驚きは常に恐怖の友達だ。
知らない道をタイムズスクエア目印に歩いてたら、行き止まりにぶつかって、すこし戻る。
映画を見終わったあとの余韻というか高揚というか、ずっと抱えてたどうしようもなさが落ち着いてきたことを自覚する。
あの娘のことを考える。
呑んだ帰り、40過ぎて夜中2人で歩きながら、どうしようもない話をいくつかした。
彼女がどう感じたかたしかめていないけど、たぶん2人は似ていて、でも決定的に違うようだ。
ただ、彼女は僕が被っている猫を見破っていたようで、言外に被り方が下手だと言った。
それは、そこはかとなく心地良くて、とても似ていると思っていた元カノにも言われなかったことだった。
知っている街並みに入って、目の前を成田エクスプレスが過ぎていく。
最後をどう理解するかは人によって分かれるだろうけど、一瞬感じた「救われた」感が、もうちょっと言うと、ポジティヴに生を肯定し、生きる自由の賛歌のように一瞬見えたのが、普通開くハズのない空港の扉が開いた途端、融けて消えた感触がたしかにあった。
実際、パンフの中ではそのように書かれていたりもする。監督もそれに近いことを言う。
まるでイメージカットなのだけど、間違いなく、ベニーは死んだのだ。間違いなく。
ギニアへ向かう空港での疾走は、あり得た可能性の未来だ。
怒りをコントロールし、しかしコントロールしきれない可能性の未来だ。
だって、雪降る中、軽装の子ども一人が生き延びれるハズないじゃないか。
僕の知っている冬より幾分暖かそうだけど、野良犬の犬小屋で一緒に暖を取るなんて、あるわけがないじゃないか。
もしかしたら、アレは牧場の犬だったのかもしれないけど、ならば尚のこと、あそこにいるハズがない犬。
エンドロールで「なにも無いけど、体があって自由がある」と、ニーナ・シモン「Ain't Got No, I Got Life」が流れる。
なんと言う皮肉かと思う。
「システム・クラッシャー」というタイトルは、あまりにも的を射ていて心に辛い。そして、劇中の台詞で出てくるってことは科学用語なのだ。辛い(パンフによると、隠語みたいだけども)
改めて、どうして自分はまだ生きているのか?と考える。
甥っ子もまだ生きている。
たしかに、今の僕は自由だ。
ずっと映画の感想をiPhoneに書きながら、青山から西新宿まで歩き通せるぐらいには自由だ。
生きていて良かった。と、思える映画に出会えたのだけど、本当に面白かったのか、まだ思考がまとまらない。
自分の感情を自分でコントロールできない限り、どうしようもない。
それはとてつもなく難しくて、とてつもなく面倒くさいことで、でも、なんとなく折り合いを付けて、42歳まで生きてきた。
ドイツの児童福祉があんなにもハイクオリティであっても、ベニーには関係が無いのだけど、どうしたって幼女のヌードの連発に不安がつきまとうのだが、監督ノラ・フィングシャイトは女性で、すこしだけ安心する。
とりあえず、歩き続けた体は熱くて、お腹が減っていることも思い出す。