作品名 | 記述者 | 記述日 | 星 |
ゼア・ウィル・ビー・ブラッド | 唸るバクテリア | 2008/5/29 | ★★★★ |
と、思わないではなかったのは、単にこの映画で笑った自分には笑いのセンスがあるという妄想に襲われてるからです。生まれてすみません。
閑話休題。
笑いの要素は「常識」と「逆転」である。
たとえば典型的なコンビ漫才は「ボケ」と「ツッコミ」に分けられる。一般的に「ツッコミ」が「常識」を担当し、「ボケ」が常識を逆転させる。
したがって、漫才やコントは一般的なシチュエーションを舞台にストーリィが構成される(ファミレスやコンビニコントが増えるのは必然なのだ)
この構造は万国共通で、たとえば「Mr.ビーン」や「裸の銃を持つ男」がそうだろうし、ジム・キャリーやエディ・マーフィーが主演するコメディもそんな感じ。
もっと抽象的にカッコ良く表現するなら笑いは「静」と「動」の対立から生まれる。
もちろん、キリスト教原理主義批判だとか、石油文明への警笛だとか、欲望に塗れた人間から親族は離れていくだとか、そゆ真面目な味方を否定しないし、それだけ多面的に作られた映画だとも思う。
ただ、露骨に「反復」されたド突きあいは登場人物の立場を「逆転」させ続けた。冒頭で述べたように、これは明らかに作者が笑いを意図していたことを示す。
思い返せば、映画的な興奮に近い場面でかかっていた音楽は、いつもヒステリックに揺らいでいた(なにせ音楽監督はレディヘのジョニー・グリーンウッドだもの)
これも「対立」と捉えれば、映画的な「常識」に対する「非常識」と取れるだろう。
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