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作品名記述者記述日
今日からぼくが村の映画館唸るバクテリア2026/06/05★★★★

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上映時間的に違う映画を見ようかと思っていたのだけど、何故か完璧に「今日からぼくが村の映画館」を見る気で武蔵野館のページを開き、ポチってしまったので「今日からぼくが村の映画館」を新宿武蔵野館で見ました。
あまりにプリミティヴだったので評価が難しいところだけど、これを嫌いという理由があるかというと絶対に無いのである。
映画の映画だと聴いて来てみたら、物語のための映画だった。物語のための物語だった
どこにいても物語が必要なのだ。人間は。
いろんな物語が必要で、その上で自分たちの物語が必要だという話だった。多様性程度のことがなければ、自分たちのことなんてわからないじゃないかという話だった。
否応なしに文化は侵入してきて、物語序盤から薄く鳴り続けていた不吉さは、ラストシーンで現実化される。
あのラストシーンは、そもそも必要か?とも思うのだけど、現実化する必要はどうしたってある。
姉は帰ってこないのだ

序盤から、時間軸が読み取れずに困ることは否めない。何時の映画なのか?おそらく現代の話ではない。
いくらペルーの山の上でも、2020年代だったら、ここまで電子機器に侵略されていないはずがない。
悔しいかな。現代は現実を陵辱する
すくなくとも、ブルース・リー以後の世界なのは間違いない。
80年代か90年代だろうと推測はする。
ラストシーンからしても、おおよそこの推測は間違いない。
と書いてパンフを見たら「80年代後半」と書かれていたので、この推察はあっているよう。さすが俺(笑)
にもかかわらず、ドラキュラでワーキャー言うのだ。
宇多丸じゃないけど、知らない世界には戻れない典型のようなシーン。
文化や文明は均一ではないし、そんな人たちでもブルース・リーにはヤられるわけだし、主人公シストゥ as ビクトル・アクリオが正しく「映画館」になって以降は、チャップリンやアラジンやアーサー王やキングコングにやられるわけだ。
そうやって、みんなやられてきたのだ
100年ちょっとの映画史において、名前を刻んだ人たち全員が通ってきた道が、ここに再現される。
資本主義と知識は田舎を陵辱するけれど、映画を見れるのは資本主義と知識のお陰だ。不条理だね
そうして、主人公は映画監督になるのだ。
絶対医者になった方が金持ちになったはずなのに(笑)
なお、シストゥは監督セサル・ガリンド自身と見なして構わない。そして、ビクトル・アクリオは良い役者です。

プリミティヴさを感じる要因に、具体的な事実をボヤかした演出がある。
姉は間違いなく人買いに売られて、パンフの中すら誤魔化していたけど、エブスタイン的なキモいオッサンにやられちゃったりしてるのだ。
うん。ごめん。たしかに風俗行くと若い娘指名しがちだわ。
そうじゃなく、物々交換的な経済に侵食する資本主義の前に、プリミティヴな経済は物質を置くことで貨幣の代替を認めさせる。
物質文明を否定したがりな人たちが見逃すけれど、この強引さこそがザ・プリミティヴなのだ
お前らのルールは知らんけど、礼儀は弁えてるつもりだぜ。
とはいえ「プリミティヴ」を連呼しているけど、大方の予想通り、大半の出演者はゼムセルフなのである。ケチュア語話者たちだ。
だからこその言葉がわからないのにザ・大根芝居といったシーンもあれば、だからこその親密さみたいな感慨もある。
間違いなく、彼らにとってこの映画そのものが一生の思い出なのだ。この映画こそが語り継がれていく物語になるのだ。
なお、エンドロール最後に「ケチュア語監修」のテロップに魂消てしまう。
この国には監修できる人がいるのだ。
ケチュア語の物語を手に入れられる文化があって良かった。

唯一、1シーンだけ、画質が違うシーンがあって、そこだけ引っかかった。
あそこだけ、画角からしてiPhoneで撮ったのをフィルタかけずに出したのかしら?とは思った。
そこはプリミティヴさで誤魔化しちゃ駄目なんじゃなかろうか?

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