作品名 | 記述者 | 記述日 | 星 |
ウーマン・トーキング 私たちの選択 | 唸るバクテリア | 2023/07/07 | ★★★★★ |
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と、ここまで書いてもう一度思い返してみると、なにが面白かったのかと言われれば、議論ではなく、信仰こそが人間の決定を促すというキリスト教史観なのです。
絶対に俺が持ち得ない思想で、まったく同意する気も無いのだけど、「デイドリーム・ビリーバー」がかかっていたことを思うと、2010年に、日本ではなくアメリカの南部(原作はボリビアらしい)で国勢調査の車が「デイドリーム・ビリーバー」かけてたことは、俄然意味を増すんじゃないかと。
清志郎の訳でしか理解してないし、唄えないし、清志郎が死んで以降に清志郎以外の人が唄うのに合わせて唄った回数が多い曲だけど、僕は夢の中にしかいなくて、彼女がクイーンなのです。
もちろん、この映画での「僕」は男ども、キリスト教右派のマチズモどもで、「クイーン」なのはオーラたち女性なのです。しかし、その場で唆してるのは2010年の白人男性なのだよなぁ・・・
って、なにが一番驚いたって、「デイドリーム・ビリーバー」ではなく、途中出てきたとおり、この映画の舞台が2010年のことですよね。
元エピソードがボリビアとはいえ、なにそれ?これだからキリスト教右派は!という気になる。
「赦し」がテーマのひとつだし、だからこそ、女たちは去ることを選べたのだけど、キリスト教右派でなければ、そもそもこんな集落成立しなかったわけで、宗教観こそが悪の根源だ。と言っても過言じゃなかろう。という気になる。
でも、悲しいかな、キリスト教右派でなくたって、ちょっと前の日本じゃ夜這いが日常だったわけだから、一概にキリスト教右派を否定するわけにはいかないし、ワンチャンいい女とやりたい自分は否定できない。
「 いい女でかければいい マスカキザル夢見るだけ 」
とは、ピーズの名曲「マスカキザル」のひと節。
じゃあさ、愛をどう表現して、どう伝えればいいの?とは思う。
この手の映画を見ていて、いつも男に答えが無さすぎるから過去の自分を否定しか出来なくなる。辛い。
目の前に性癖を刺激するモノがあったら反応するじゃないか!
そういう意味で、「先生」というオーガスト as ベン・ウィショーを都合良く扱っているようには見える。
思想的にあえて戻ってきたのだから、職業倫理的にも女性に抵抗は出来ない。都合のよい男。
そのクセ、集落の男どもに直接犯行の出来ないフニャチン野郎。
でも、それはミソジニー的な解釈であると自分でもわかっていて、高々と唄われる「愛」は不明な生物学的父親を赦すが、やはり、それは赦しちゃいけないんじゃないか?という感慨は否定できない。
子どもに罪はないけれど。
どうすればいいのか?
昨日送ったメッセージに、猛烈な自己嫌悪を抱く。
どんな言葉を並べても、自己弁護にしか読めないので、言い訳も出来ないで、最後に、帰りヘッドフォンから聞こえてきたくるりの「犬とベイビー」が、最終的に言えることは「嫌いにならないで」しか言えないと釘を刺してきた。
はぁ。
むしろ、早く嫌われたいことこの上ない。みっともないことこの上ない。
はぁ。
だからこそ、考えなければならないというこの映画は「尊い」とも言えるし、最後のワンフレーズにこそ希望はある。
きっと、あなたの物語はこんなことにならない。
生まれた経緯と、生き方は結びついてはならない。
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