雑感・レヴュ集
メタセコイア
映画

作品名記述者記述日
イノセンス唸るバクテリア2004/03/06★★★★

ここでも若干内容に触れてますので興味のある方はどうぞ。

押井守の映画は、いつもヘリコプタのロータ音で始まる―

なんて話はマグマでやればいい話で、ここでは違うことを。
たとえば、この映画を絵の凄さで評するのは誤りだ。そんなことは「指輪」でやればよい。
少なくともU・BはCGとセルの合成に関して「メトロポリス」で既に驚愕しているし、セルアニメの限界を「COWBOY BEBOP 天国の扉」で実感しているので、そこらの素人のようなコメントは書けない。
なにせ、アニヲタですから(笑)
蛇足ながら、「指輪」の映像の凄さを評するなら、たとえばレゴラスが象をどうやって倒したかだ。

人形は人間ではないから瞬きをしない。
しかし、カメラはピントを調整するためにレンズを閉じたり開いたりする。
まるで人間の瞳のように。
CMにも使われていたが、ハラウェイが使っていたカメラは露骨に瞳を模していた。
彼女はトグサに、人と人形の違いを解いていたいにもかかわらず、彼女が使う道具は人を模していた。そもそも、彼女自身、どこまでが人でどこまでが人形かわからない。

「ドラえもんの最終回」という都市伝説がある。
詳細は各自で検索して頂くとして、この話を見てもわかるように、ロボット物(not スーパロボット物 but ダイターン3は除く)のテーゼである。
人間との違い。
わたしはいったいなんなのか?
しかし、妄想が少し激しい人ならば誰もが通る道でもある。それが哲学の発端だし、それで発狂した哲学者は数多い。
ほぼ生身であるトグサはオルゴール屋敷でその命題に躓くが、ほぼサイボーグであるバトーはそこで救いを得た。
トグサにとってのアイデンティティが家族にあって、それが妄想かもしれない(=存在しない)と恐怖したのに対し、バトーは自分が「機械である」とすることで、素子への愛にアイデンティティを置いている。
微妙な矛盾である。
今までのロボット物のテーゼでは、思い悩むのはロボットだ。だが、ここで悩むのは生身のトグサ。
もちろん、バトーだってアイデンティティに近いところで悩むのだが、そんな彼に素子はこういうのだ

「人形だったら、『人間になりたくない』っていうでしょうね」

SF的に言えば、精神生命体である彼女は既にもう、人間でも機械でもない。
したがって、人間であるとか機械であるとか、あまつさえ、生きているとか死んでいるとかにアイデンティティを置いていない。彼女にとって―わたしにとって、そもそも躰は入れ物でしかない。

ロボットしか登場しないから、ロボットの方が人間的だったりする。ロボット三原則、つまり、彼らにとって命よりも大事なルールを破ってしまったから、彼らロボットは自害する。
これを綺麗といわずに、なにを綺麗というのだろうか?
しかし、ほとんどの人間にはできない芸当である。できるのは、一部の“狂った”人間たちだけだ。
だから、美しい。

トグサは瞬きをするが、バトーは瞬きをしない。そもそもまぶたが存在していない。
バトーの目よりも、ハラウェイが使っていたカメラの方がよっぽど人間的である。
しかして、一番人間的な目をしていたのは、ハダリに自分の一部をインストールした素子である。
もっとも非人間的な存在が、もっとも人間らしい。
思えば、球体人形たちのボールジョイントは、眼球に似ている。
本来動くはずの物が動かない。本来動かない物が動く。
その瞬間、存在は生じる。

「今、お前、幸せか?」


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