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洋画

作品名記述者記述日
リトル・ガール唸るバクテリア2021/12/17★★★★

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最初、予告編見た時、油断してたので「小さな女の子の話でこのタイトルって馬鹿なの?」思った「リトル・ガール」見ました。
サシャが問答無用の美少女なのです
どうしてあの両親からこんな美少女が生まれたのか?
と、思わずにはいられないぐらいの美少女なのです。
まぁ、お姉ちゃんも美人だったけども(とはいえ母親の雰囲気はある)
ある意味、「DUNE」でティモシー・シャラメを見ているようなモノなのです。
2回目に予告見た時、ようやく腑に落ちた。ああ、そういう映画か
でも、フランス映画?
フランスって、わりと受け入れてそうな気がするけど。
そう思った。
でしょ?だって、華の都ですよ。パリ。
でも、違った。
なんだよ。そんな、どこの日本だよ。どこの教師もやること同じなのかよ。
小学校教師の友達いるけど、そんなヤツじゃ無いし、思いたくもないよ!
もちろん、この映画は監督がサシャに寄り添いすぎている。
本来、ドキュメンタリーとしては教師サイドのインタヴュもあるべきなのだ。
それが無い。
89分、ずっとサシャに寄り添う。
もしかしたら、サシャに寄り添っているのではなく、サシャの母親カリーヌに寄り添っているのかもしれない。
カリーヌの不安は冒頭から語られる。
おそらく、大なり小なり「親」になる人が書かえるのだろう不安。
俺には無関係な不安。
サシャの思考や感情はほとんどが表情で語られ、だからこそ、この映画のドキュメンタリズムは、サシャという名優に支えられすぎているのだけれど、カリーヌとその家族が社会と戦えているのも、ひとえにサシャのカリスマ性に依存しているとも見える。
それほどに、サシャは魅力的なのだ。
もちろん、観客であるわたしがそう感じたのは編集による。
劇中で映されないサシャの苦しみは、誰かの言葉で語られる。サシャの表情で語られる点からも明らかだ。

一方で、パンフの佐々木掌子の寄稿が抜群に素晴らしいし、佐々木掌子の素晴らしい解説で言及されているのだけれど、サシャの決意は変わりうることを想定しておく必要がある。
そうか!と思う。
のっけから注釈で「身体的男性」が差別的だと言及していることに、言葉狩りに近しい違和感を感じていたのだけれど、佐々木掌子の解説にあるとおり、なにを持って「身体的男性」と定義するかから議論が必要であるのは当然の話じゃないか
「普通の人よりはセクマイについて知識はある」なんてのは、単なる増長に過ぎない。謙虚に定義を疑え
未来はいつだって変動して、運命は切り開くものだから、可能性は制限しない。
それはマイノリティだからってわけじゃなく、どんな若い子もが持つ権利である。
なので手術はしない。ホルモン療法はいつだって止めることができる。
パリの小児精神科医は、きちんと必要な説明をし、未来を見ている。
知らないだけで、当然医学だってきちんと最新化されているんじゃないか!

ジェンダー映画に見えるし、事実そうなんだけど、でも、きっと、この映画は誰かの未来を守る・肯定する映画なのだ。
マジョリティでさえ、未来は守られる必要がある。
そして、サシャの未来に幸多きことを。

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