素直に、50代とか気にならないぐらいエロいジェニファー・ロペスの「
マリ・ミー」見ました。
思ってたより、だいぶ良かったのだけど、結局これだと、単なる逆シンデレラストーリーにしかならないんじゃないだろうか?
チャーリー as オーウェン・ウィルソンが勝手に嫉妬して、勝手に離れた人を忘れられないからとキャット as ジェニファー・ロペスが勝手に唄を捧げて、最後、勝手にキャットからプロボーズするって、ジェンダーが反転しているだけで、エンパワーメントとしての新しさや強さは無いんじゃないだろうか?
もちろん、反転していることに意味はある。
この反転は極めて現代的だし、全編的に散りばめられた現代的なガジェットは、これが夢物語でありつつも、現代の物語だと告げている。
ライヴ映像のライヴ映像らしいビデオ感や日常シーンの映画的なフィルム感、SNSとして差し込まれる配信画面、それぞれの画質の違いは、それぞれのリアリティを如実に描きわけ、世界の違いを際立たせる。
なので、チャーリー側の人間としては、キャットのライヴシーンの違和感がたまらなく近づきづらい。
現場にいればそんなことは感じないはずの虚構感に打ちひしがれる。
愛しいキャットは遠い、みんなの偶像なのだ。
それはわかる。わかるのだけども・・・
二人の価値観の違いは「同じことを繰り返す」ことを恐れたキャットが、大衆の誤解に気付いて、違うことをはじめなければならないと踏み出したことにはじまる。
そこからの怒濤の展開。とくに機内サービスは爆笑したのだけど、さりげなくパスポートが必要だと挟み込まれることで、キャットは(おそらく)プエルトリコの人間であり、アメリカを母国にしていないと補強する巧みさ。
だからこそ、どんな二大スターでもキャットにとって
グラミーはチャンスなのだ。
それはアメリカ白人のチャーリーには尚更わからない。
ならばこそ、持っている人のチャーリーは、単に持っているだけで宝物を手に入れたのではないか?実は
シンデレラにすらなっていないのではないか?
チャーリーはキャットの日常に脚を踏み入れはしたけど、マスコン決勝で、ルー as クロエ・コールマンのために踊ったけれど、でもその程度のことでは、キャットのために、あるいは己のために、なにも変えていない。踏み出していない。
ルーは緊張を乗り越えて正解を答えた。成長した。
変わったのは女性ばかりで男が変わらないのは良いのか?
この物語のテーマは「みんな変わるために一歩踏み出そう」じゃないのか?
「素のままの君が綺麗」は、スッピン信仰となにが違うのか?
「
君がかなしくて良かった 」
は、結局、前の男と同じなんじゃないのか?
なので、期待値よりは良い映画だったのだけど、違和感が残った。
しかして、存外
さえぼー先生はその辺スルーだったので、ロマコメだから許されるのか、はたまた、これこそが性差か?
閑話休題。
やはり、ジェニファー・ロペスは凄いのです。
細かいところをチェックすると、年相応ではあるのだけど、しかし、あの体とあのファニーさなのです。
自分の気持ちに気付いたシーンの顔芸は役者としてもっと評価されるべきだし、
圧巻の歌唱シーンの説得力。
そうか。アレは
マルーマの本物のライヴなのか!
表題曲だから、「Marry Me」が持て囃されるのはわかるし、キャッチーでもあるのだけど、考えて考えて考え抜いた曲である「On My Way」は曲の展開も含めて大好きな曲。これは買う。
レコーディングシーンも素晴らしい。
もちろん、パーカー as サラ・シルバーマンのファンキーさも良いのだが、
ルーなのです。クロエ・コールマンなのです。
最高じゃないですか!
「
ガンパウダー・ミルクシェイク」でも言及したけど、この手の賢くて、でも、どこかに傷を抱えてる子役は、全部クロエ・コールマンになるんじゃなかろうか。
「席巻」という語が相応しい。