三連休なのをすっかり忘れていた2/24の月曜日。
今年は順調に毎週映画見ているのもあって、たまには映画館に行かない週末があってもいいかと思ってたのだけど、いいやと「
ノー・アザー・ランド 故郷は他にない
初のシネ・リーブル池袋なのだけれど、場所確認してたら、
ルミネの春のシーズンビジュアルが素晴らしい。
「親切はいつもふたり以上を幸福にする。」ってコピーも良いし、なにより中西希亜良を用いたビジュアルが素晴らしい。
久々にデパートっていうか、百貨店広告っていいなぁと思いましたよ。
それはともかく、
全然幸福ではない映画の舞台はヨルダン川西岸。
お前ら人の誕生日(
U・Bは10/13生)になにしてくれてん!と、最後終わり際に喰らわされれる。
パンフの安田菜津記のおかげで、撃たれたザッカリーヤ・アドラーが生きていると知って、ちょっとだけホッとする。
その日なにをしてたかと確認したら、
仕事終わりにブラックジャック展行ってたよ。こんちきしょうめ。
なんだよ。入植者(大半が顔を隠しているが最後のヤツは露出している)なんて、金だけ持ってる
「ガンダム」のマンハンターみたいな糞人間。
心から「
みったくない」の語が頭を駆け巡る。
仮に家を壊す権利があったとして、それでも子どもを蹂躙するのは、あまりに滑稽でみったくないことこの上ない。無様とすら言える。
映し出されない「越えられない壁」があって、でも、そこには間違いなく
生きている人がいるのだ。
イスラエルがアラブ人の拡大を恐れるのは、自分たちがその場所を占拠している自覚があるから。
約束された土地は、人の土地だという自覚があるからに他ならない。
もちろん、そこには命を狙われる反転があるのだけど、
子どもに歴史は関係ない。
因縁に、新しい人を巻き込むなよ。と、強く思う。
子どもたちは、それでも楽しそうに映し出される。
もちろん、辛いシーンがいくつもあるのだけど、記憶に残っている子どもは笑顔だ。
公園には遊具が残っていて、部屋の中にはブランコを作っている。
どう考えたって、
子どもの笑顔を守ろうとするパレスチナ人が正義だ。
この一点において、俺はイスラエルの武力行使を否定する。
パンフで森達也が書いているとおり、反ユダヤと強硬なシオニズムをあえて混同しているのが、今のイスラエルなのだ。
2020年COVID-19直撃の中、なにやってんだお前ら!って気が心の底から沸き起こる。
けれども、と、逆接の接続詞を使わざるを得ない。
パンフでこれまた安田菜津記が書いているとおり、ドイツはパレスチナ人監督バーセル・アドラーの存在をガン無視して、イスラエル人監督ユヴァル・アブラハームを称賛する。
そりゃそうだ。ドイツはイスラエルを嫌悪できないのだ。ユダヤ人を虐殺したのはドイツなのだから。
パンフで熊谷徹も言及しているとおりだ。
この状況を生み出したのは、ドイツなのだから。
辛い。もう辛い以外の単語が出てこない。
なんなの?お前らまとめて馬鹿なの?そんなことばっかりやってるから!!!
日本という国で生きていて、映画館でダラッとしながら見ているのに、そんなことを考えてしまう。
辛い。
マサーフェル・ヤッタは、この映画で救われるといいのに。
ちなみに、「バーセル・アドラーを撮っている人」がいると、常にこの映画は意識させられる。
バーセル・アドラーは監督であると同時に主役でもある。
誰が撮っているのかと思ったら、まさかイスラエル人女性撮影監督のラヘル・ショールがクレジットされていた。
パンフを見てビックリした。
つまり、この映画はパレスチナ人2人とイスラエル人2人の映画なのだ。
このバランス感覚が、この映画をアカデミー長編ドキュメンタリー賞まで導いた。
常に映像が側にある世代を前に、ワタシのような古代人は狼狽えるしかない。
同時に、SNSごときはパレスチナ人を救うことが出来ないと絶望に落とし込む。
95分しかないのに、ズンっとした絶望に覆われる。
クレジットを見ると、出資してるのはパレスチナだけじゃなく、ノルウェーがいる。
そういうとこに名前を並べられない国じゃないことに、心の底から絶望する。
せめて、子どもの笑顔ぐらい守らせて欲しい。
子どもの笑顔も守れない宗教なんて、糞食らえだ。
みったくない。