作品名 | 記述者 | 記述日 | 星 |
夏の砂の上 | 唸るバクテリア | 2025/09/12 | ★★★★ |
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さて、長崎である。
何故か今年は長崎づいてる。
偶然だろうけど、パンフ読んでたら原摩利彦も書いてたけど「国宝」や、予告編でかかった福山雅治に主題歌書かせた「長崎—閃光の影で—」など、邦画界が長崎づいてる気がする。
それは、欧米映画界が戦争づいてるのと同義な気がする。
カメラがフィックスで動かず、すこしフィルムカメラっぽい画質だったのは、今の話でありつつ、今では無い「いつか」の物語あることを想起させる。
作中、本当に唐突に愛撫されてる高石あかりが原爆の話をしだす。
長崎の夏は、問答無用にあの日から原爆に彩られてしまっている。
夏を描く時には、どうしたって逃げられない。
が、この映画はそこに向かっていき、そして逃げ出す。
何故なら、高石あかりは長崎の子どもではないから。
このバランスは絶妙だ。
高石あかりにその重たさを受ける度量が無いわけではない。
ただ、真っ正面から受ける役者ではないのだからな・・・と思って見ていたら、軽やかにやり過ごす。事実は事実。わたしはわたし。
松たか子がパンフで高石あかりを絶妙に形容してるのだけど、
「 優子の真っ直ぐさで、恵子が汚れていける 」
嗚呼。プロデューサのオダギリジョー。
なんて見事なキャスティング。素晴らしい。
オダジョーは長崎の人ではないのだけど、これを映画化したいと考えたのはよくわかる。納得。
ラストカットのオダジョーの顔たるや。
解放の物語なのは言うまでもない。
監督玉田真也は主人公小浦治の成長物語というが、誰がなにがといえば、実は役者オダギリジョーからの解放なんじゃないかしら?
凄まじくよい映画とはいわないけれど、オダギリジョーの節目となる映画なのだろう。
と思ったら、パンフで高石あかりも「自分のターニングポイント」と言っていた。
そういう節目の映画を見れたのは幸運だ。
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