世界で一番有名な辞める辞める詐欺こと、クリント・イーストウッド最新作「
クライ・マッチョ」を見ました。
ちなみに、
日本で一番有名な辞める辞める詐欺は、もちろん宮崎駿です。ありがとうございます。
で、結論としては、
マッチョの単推しです。
それ以外の選択肢がありません。
マッチョカッコいいよ。マッチョ。
酉年の人間として、心からのリスペクトを(なんだそれ)
それにしたって、こんなにも「俺はなにを見ているのだ?」と悶え苦しむとは思いもしなかった。酷い。酷いぞ。イーストウッド。
いいんだよ。別に。
何故か90過ぎのじーさんがモテるのはいいんですよ。
イーストウッドだから。
イーストウッドが俺よりモテるのは仕方がない。
皮だけでも、妙な色気があるのは否定できない。
ましてや「ドリトル先生」並みの動物従わせ力!
流石に馴致はスタントだったけど、馬に乗ってる時のが姿勢いいとか、天下のイーストウッド流石だなぁと思うし、老いらくな恋物語でも良いさ。
ただ、ラストは「
これで終わりかい」ツッコんだのだけど。
そうじゃないのだ。
このところのイーストウッド伝統芸化している、強いアメリカの衰退論ともちょっと違っていて、もちろん、それは出てくるのだけど、そして、明らかにその矢印はトランプに向かっているのだけど、実は、この映画の本質は
90過ぎたじーさんがメロウな西部劇を2020年代にやるなら、舞台は70年代だよね!なのだ。
だから、「なにを見ているのだ?」感が半端ない。恐ろしくクラクラする。
時制というか、時空がよくわからない。
リアルに見せて、超絶ファンタジーなのだ。
原作が70年代の小説なんだから、そりゃ当然と言わざるを得ない。
どんなに脚色をしても、根底の価値観が超絶古い。
だから、マッチョは効果的に活躍し、単推しになる。
だから、スタントダブルとの差し替えがビックリするほど下手くそでも許される。
だから、手話を使えることに説明もないし、闘鶏場のガサ入れなのに、誰も現場には足を踏み入れず、二人だけが残される。
じゃあ、なんで「70年代ウェスタン擬き」をイーストウッドは作ったのか?
要素はそこら中に転がっている。
作中、ジョークのように登場したイーストウッドの監督・主演した前作「
運び屋」と前々作「
グラン・トリノ」を足して2で割ったような感触がある。
パンフの鬼塚大輔解説が我が意を得たりなのだけれど、ロードムーヴィと子ども育成を足して2で割った映画が「クライ・マッチョ」である。
と、思ってたんだけど、実際に見終えたらちょっと違う。
だから、「なにを見ているのだ?」感が半端ない。
違うのだ。
同じく、パンフの町山さん解説を読んでハッとしたのだけれど、ラストシーンが原作から反転しているのだ。
ならばそこには明確な意図がある。
2022年に公開される映画の意味がある。
上述の通り、ツッコまざるを得なかったラストの意味を考え直す必要がある。
強いアメリカの象徴だったクリント・イーストウッドというじーさんは、91まで生きて、本当に強いアメリカの意味に気づいたのだ。
アメリカは(今じゃポリコレで引っかかるようだけど)「人種の坩堝」であり、原住民や黒人を奴隷として国家を広げた、もともと多様性の上に成り立っていた国家なのだ。
であれば、90過ぎた老人が、
言葉の通じない異国の民と恋に落ちることも多様性なのだ。
過去の延長線上であり、2022年だからこその演出だと見なすことができる。
60過ぎて子どもを作ったじーさんだからこそ、90過ぎて惚れられることのリアリティがある。
それは、
どうしようもなく自由だ。
2020年代に70年代を舞台にメロウな西部劇をやってなにが悪い。
そう言い除けられたら、なにも言い返せないじゃないか。
じーさん。好きにしやがれ!
にしても、ラフォ役のエドゥアルド・ミネットは、これから先いろいろな映画で名前を見そう。
若干ステレオタイプな芝居も見受けられたけど、伸び代ですわな。