久々に遅い時間の映画館へやってきて、「
フェイブルマンズ」見ました。
「フェイブルマンズ」前の予告編がちょいちょい切れるから、新宿ピカデリー大丈夫か?思ったことは言うまでもない。
それはともかく、
たしかに凄い映画ではあった。
違うな。すこし語弊がある。
よくこれを映画にしようとしたな。
が、たぶん適切な形容。
それはもちろん「家族」の話だからでなのだけど、むしろ、それこそ映画レヴュで溢れんばかりに言及されている「映画の映画」というか、「映画の教科書の映画」だからなんじゃないだろうか。
それはもう、言わずもがななラストシーンに尽きる。
何故かここだけ実在の人物として出てくるジョン・フォードに言わせたとおり、
地平線は上か下にあるべきだし、地平線を上にしたら見切れてしまうから、
極端な下にするしかないのだ。それをあえてやってみせたところが、
この映画一番のポイントだったんじゃないだろうか?
そうして振り返ってみると、もちろんスピルバーグ史だから当然ではあるのだけど、映画史だし、映画ジャンルのごった煮詰めでもある。
しかも、いくつかのシーンは見るからに合成だ。
ちゃんとしっかり最新の技術を使って、わかりやすい合成にしている。
カメラ一台で、あんなカット切れるわけないじゃないか!は、ツッコみどころではない。
「ウエスト・サイド・ストーリー」を踏まえて、ユダヤ差別の話としての解釈も考えたのだけど、そういう解釈でこの映画見るのは、詰まらないじゃないかしら?
やはり、ごった煮映画として捉えて、「映画技法の説明映画」として見た方が面白いんじゃないか?
何故なら、母親を寝取った男からもらったカメラを捨てることすら出来ず、
ベッドの下に大事にしまってた男なのだ。スピルバーグという男は。
激突させるために鉄道模型を欲しがって、
一発で画になる映像を収めた男の子なのだ。スピルバーグという男は。
ちょっとどうかしてるし、そもそも、映画になるだけの物語をガッツリ背負って生まれ育ってる時点で、
映画人としては勝ち組なのだ。
ボリスおじさんが言っていたとおりじゃないか!
なので、今年はずっと引き合いに出すこと確定な「
エンドロールのつづき」や「
バビロン」のように、
「映画好き好き」といった若さがないのだ。
なんだ、俺、
若い映画好きなんだ。全然。
ただ、これで「ドヤッ!」と、アカデミー賞にノミネートされまくる野心が、ほんのり透けて見えるスピルバーグも
全然若い。
しかし。しかしだ。スピルバーグはやはり恵まれた子ではないか?とも思う。
母親が家族以外の人間に注ぐ愛情に、母親のために行っていた作業で気付くことはドラマ的だけど、しかし
持っている人だからこそ起きたのだ。
だって、才能も機材も持っていたから、あんな目に遭ったのだ。
持たざるものの物語りたる「エンドロールのつづき」とは決定的に違う。
そして、持たざる側の人間としては、自分事では見れなかった。
なので俺は「エンドロールのつづき」のが好き。