アトロクで散々煽られた上に、
町山さんも絶賛で見ざるを得ないよね!
となっていた「
みんな、おしゃべり!」を、久々なユーロスペースで見ました。
まぁ、アトロクの放課後Podcastでフルカワさんが紹介した時点で見に行くことは決めてたのだけども。
まさかのオチ(笑)
やっぱりクロスオーバーは良いというか、この映画のテーマとしてそうなるのは極めて正しいのですよね。
顔芸も見応えがあるというか、見てる甲斐があるなぁと。
ある意味で、これぞ映画体験とも。
冒頭の「字幕も映画の一部です」という
カマシがまず素晴らしい。
でもって、そのあとタイトルがいろんな言語で表示される。
そういう映画だという声高な宣言で、
ですよねぇ。と思うし、
そうこなくては!とも思う。
これだけで、映画としては勝ちだと納得させられる。
そして、本編がはじまると具体的な説明は台詞で行われない。
なにせCODAと聾者の家族からはじまるのだから。
全般的に静かな映画ではある。
聾者が中心にいる映画だから当然ではあるのだけど、実際は
ちゃんと騒がしい(笑)
BGMはさほど使われておらず、宇宙語チックな歌詞が唄われるが、同時にそのビート感は心拍や緊張を如実に形容する。
カメラは手持ちが多用されていて、BGM同様、意図的に手ブレが用いられてもいる(正直かなりの減点対象だけど)(パンフ読むと意図的らしい)
いずれにせよ、どう理解しようとするか?は、この映画の主題でもあるし、
そもそも映画というメディアの本質でもある。
いろいろな言語でこのテーマが何度も何度も語られる。五月蝿いぐらいに(笑)
手話は言語であるのは、2024年の「翻訳できない わたしの言葉」展でしっかり学んだこと出るにもかかわらず、劇中、聾者たちは自分たちを「障害」にカテゴライズせず「言語」にカテゴライズするよう訴えるのを見て、ハッとした。
なにもわかっていないと突きつけるモノがあった。
映画のテンポがすこし遅いと思いながら見ていたのだけど、これだけ騒がしい映画のテンポを上げてしまったら、五月蝿すぎて仕方ないと思い返して落ち着いて見れるようになった。
出てきた言語を数えたくなる(実際宇多丸は数えてたw)けど、結局最後はノンバーバルコミュニケーションに落ち着いていった。
作中、技術発展に伴う手話文化の消失懸念を述べていたけれど(懸念は卓見だし、あり得ると膝を打つ)、ボディランゲージとは正しく手話じゃないか?と考える。
聾コミュニティーの中には、すでに多様性が保持されていて、しかし、それを「狭いコミュニティ」と言ってしまえるほどには同質性がある。
じゃあ、同質と異質の違いってなんだ?
この映画のもうひとつのテーマに見える。
人種や国籍の違いなんかより、圧倒的に言葉の違いこそが差別を生むのだ。
その象徴として「ノアプロジェクト」があり、あのオッサンがいる。
中盤、急に青春映画となる。
あの描写を見ていると、なんだ、全然今の街並みも画になるじゃないか!って気になる。
結局、見せ方の問題じゃないかとも考える。
つまり、人種や性別や国籍や宗教や門地なんてモノの差は、見せ方の問題でしかないのではないか?と考える。
バーカウンターで、日本人が宇宙語でなにか言ったのをクルド人が「
ウォッカ 」と翻訳し、おそらくロシア系だろうバーテンダーがあえてロシア語で「
呑み方はどうする?モスコミュールがお薦めだけど 」と答え、クルド人が「
日本語でお願いします 」と注文するのは、
なんと日本的な光景だろうとも考える。
日本語がスゲェんじゃなくて、こんなしち面倒臭い言語を仲介させなければ生き延びれない国だからこそ、
国籍と言語の違いをしち面倒臭い言語が仲介しうるのだ。
これはちょっとした発見。
聾学校内で難聴者と聾者の間に差別があったとしても、
新しい言語を発明したら途端に世界は塗り変わるわけだし、飯屋で外国人同士が日本語で会話するのを何度か見ているけれど、日本にいる限りは片言の日本語を使う方が手堅いのだ。
俺が海外で片言の英語でコミュニケーションを取るのと同じ。
なにがしたいって、
コミュニケーションをしたいんだよ!っていう。
孤独が怖いんじゃない。コミュニケーションできないことが怖いのだ。
でも、
怖いことって、楽しくて仕方がない。
にしても、主演の夏海 as 長澤樹は良い役者だなぁと思ったら、アレか。「ちひろさん」のべっちんか!!!
全然印象違うけど、ああ。良い役者だなぁ(2回言った)
そして、夏海の父であり本当の主役とも言うべき古賀和彦 as 毛塚さんのラーメンは食べに行きたいが、聴者だから拒否られるかもしれない(笑)
あとそう、CG製作は白組だ!(この映画でCG!?)