7/16公開のつもりでいたら、TOHOシネマズ日比谷で7/9から先行上映だってんで張り切ってみてきた「
プロミシング・ヤング・ウーマン」
なお、初めての東京宝塚地下でした。ありがとうございます。こんなにリッチな箱だとは思わずビックリです。
両サイドに人いない上に前もいなかったから、完璧。
それはともかく、これは食らう。
この手の映画は軒並み食らう(直近だと「
Swallow/スワロウ」)んだけど、過去を思い出して凄まじく憂鬱になる。あのやらかし。
しかも、ポップでもあるから余計に食らう。
男ども舐めるなよ!ってのもあるし、
男ども後悔しろよ!って両方同時に言われてる気がしてフラフラになる。
そのクセ、上映後に物販いた女の子に「おっ!?いい女」思ったりもする。
辛い。完膚なきまでの瞬間矛盾。
許しを請いたいけれど、劇中のあのザマを見ると、その醜さにアングリする。
許されることすら許されないのか?しかし、グリーン弁護士は許された。
中盤の、グリーン弁護士シーンは見てる最中アレで良かったのか?って疑問が湧いたのだけど、(あえて悪く書くけど)キャシーの神であるニーナの名を忘れてはならないのだ。
覚えていたから救われた。なるほど。なら、仕方がない。
パンフにしろ監督にしろ発言しているが、キャシーが天使として描かれるのは、ニーナが神として存在しているからだ(という言及がわりとすくない)
はぁ。苦しい。
何故IVじゃなくてIIIIなんだろ?が、最大の疑問だったのだけど、謎が解けてからの展開は瞬きができないぐらい。
わかってけど、やっぱり酷い。よく男が言うところの「女の下ネタのがエグい」は、ある側面で事実だという認識ではあるけど、それを言うなら「男の下ネタは幼稚すぎる」のだ。
「子どもだった」を言い訳にできると信じる浅はかさから目を逸らすな。
ホント、ごめんなさい。
終盤の入り口、IIIの終わりで「俺はなにを見ているのだ?」と、正直思ったりもしたわけだが、そう問屋が卸すわけ無いのは自明(再会時の会話でそれは明らかだ)で、むしろ、迂闊に信じてしまう「好き」の幻想。
ライアンのあの素直な「好き」アピールは嫌いになれないけれど。
結局のところ、「好き」より信仰心が勝るわけで、神の意志はどうでも良く、神にどれだけ忠実に信仰できるか?
という意味では、イスラム原理主義的でもある。
ならばこそ、あの終わりはジェンダーの物語ではなく、宗教の物語であることの帰着なのだ(パンフで川口敦子も言及してるけど)
会話のウイットや、上でチラッと名前出したけど、「Swallow/スワロウ」を思い出させるような左右対称なカット、もしくは、被写体をセンタにおいたカット。
巧みな展開だし、なによりあのオープニングの見事さ!
ケチャップまみれの腕に、ホットドッグ。
アレだけでサイコ感は伝わるし、なんだかいい女感も伝わる。
しかも、妙齢感も漂っていて、あのほうれい線は絶対煙草呑みだよなぁ思ってたら、劇中ずっとストローを咥えさせることで説明してのけたり(ストローをフェラチオの隠喩と読むのは幼稚の最たるところ)とか、腕の立つ監督であることを細部でハッキリ知らしめる。
そうそう。肉体労働者であろうが医学部生であろうが性差別者に変わりはないと断言しているのも好感。
余談だけれど、最後のナースコス、実は
ハーレイ・クインコスじゃないかと思わせる。
糞な男を懲らしめる時の正装はハーレイ・クインなのだ。
性自認が男であるから余計に辛い映画だけど、近年の性差別・ジェンダーバイアスをテーマにした映画の最新系で見事な映画。
でも、俺はキャシーがいい女だと思うし、酔い潰れていたら声を掛けてしまう気はする。
殺されるなら喜んで殺されるよ。
ごめん。
殺して。
でも、好きだよ。