雑感・レヴュ集
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作品名記述者記述日
ゼブラーマン唸るバクテリア2004/03/05★★★

本文中のリンク先には、アフィリエイトを含むことがあります。ほぼお金になってないですけど。

最後の最後まで書いて気づいた。
ただここに書いた文章をダラダラ説明し直しただけ。時間無い人はリンク先参照。

いや、オモロイかオモロくないかでいけば、絶対にオモロイわけですよ。でも、なんかちょっと、タルくない?そういう話。

監督が三池さんだからそれを感じたんだと思う。
長回し。ワンカットでずっと撮り続ける。
しかし、脚本はクドカンである。
ご存じ「木更津」がアレだけブレイクした理由のひとつに特殊なカット割りがある。それは「マンハッタン」も同じ。
クドカンの脚本はできるだけ1場面が短い方が面白い
わかりやすくいうなら漫画的であるといえるのかもしれないけど、それとはちょっと違う。あえていうなら、クドカンの脚本は四コマ的なのだ。
だから長回しが非常にタルい。

この映画は最後の台詞がカッコ良く決まればそれでいい映画である。
そして、兎にも角にも最後の台詞はカッコいい。よってこの映画は成功である。
問題はそれ以前にある。
それが長回しのタルさだ。
ドラッグストア・ガール」でも書いたことだが、どうやらクドカンは、カットをバシバシ変えてくれる監督が相手でないと、その面白さが発揮されないと思う。
そういえば、「ピンポン」は結構場面が変わっていた。冗長性が発揮される卓球場面をマトリックス的技法(言い換えればアニメ的技法)で誤魔化している。
もちろん、「ゼブラーマン」でもそれは見られた。特に戦闘シーン。つーか、敵約がCG
よって、戦闘シーンそのものは冗長ではない。しかし、戦闘シーンと戦闘シーンの間はタルい。

上の行を書いていて、話がループしていることに気づいたのでまとめよう。
ひらたく言えば、クドカンは60分以上の枠は長すぎるか、あるいは短い。
演劇にしろ特撮にしろ、観客は「セオリ」を意識してみるから、その「セオリ」に外れると目先としては楽しいが、最終的にはタルくなる。
クドカンの脚本は未だに「セオリ」が演劇的である。
演劇の場合、空虹が昔言ってた言葉を借りるなら、「長台詞がないと役者が怒る」のである。したがって、冗長な場面が必要になる。
しかし、テレビや映画はそれが必要ではない。
編集によって構築された流れが、そこで切断されるからである。
なにより、「生」で無い分役者の力は減衰しているから、その冗長さを持たせることができない。
じゃあ、なんで長回しが得意な三池監督が評価されるかっていったら、それは「(広い意味で)戦闘物」を扱っているからだ。

」この稿を閉じよう。
この映画は才能と才能がぶつかって、エネルギ的に消滅してしまったようなものである。脚本と監督はその長所を見せることができていない。
最後に残ったのは哀川翔の魅力だけである。
しかし、冷静に考えてみれば、この映画は哀川翔の主演100分記念作品だ。
な〜んだ。別に哀川翔さえカッコ良く見えればそれでいい映画なんじゃん。
なら、☆5コ付けてもいいんじゃないの?カッコいいんだからさ(笑)<俺

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