前回のは「序」とかにしといた方が良かったなぁとか、いつの間にか「500文字」のアンテナから「妄現」の2文字が消えてるなぁとか、そこらを枕に置いといて、以下本題。
なお、この一連の論はたいていの人にとって「当たり前」のことを確認していく作業になるかと思います。
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先回確認し忘れたが、本稿では社会を一人以上の他者と相互作用(コミュニケーション)を及ぼすことができる関係・状態とする、社会学でもっとも小さな部類の社会の定義を用いる。
さて、アンソロジィには大きく分けて3つの文脈が存在している。
1つ目は「作品内で完結する文脈」である。言い換えるなら「ストーリィ」である。本稿で事例として取り扱う「超短編」という文芸ジャンルは「500文字」という物理的な定義でジャンルを規定しているため、「作品内で完結する文脈」が見えにくい作品が多々存在しており、「わかりにくい」という感想に直結している。が、文法によって高度に社会化された言葉が社会化された人間が読み取れるように並べられ、エンドマークを打たれているのだから、なんらかの文脈が作品内で完結していること自体は間違いない。
2つ目は「作者名によって構築される文脈」である。言い換えるなら「作者らしさ」や「文体」となるだろう。アンソロジィに収録された作品が作者にとって唯一の作品でないのならば、前後に生み出された作品との間に相互作用が生じる。したがって、アンソロジィに収録された作品は作者名によって構築される文脈に取り込まれることになる。
3つ目は「アンソロジィとして並べられることによって生じる文脈」である。言い換えるならアンソロジィのテーマである。本項で事例として取り扱う「超短編の世界」というアンソロジィでは「恐怖」のことだ。テーマによってアンソロジィは個々の物語を構造化する。
この3つの文脈はそれぞれ担い手が異なっている。1つ目の文脈は「作者」が、2つ目の文脈は「時間」が、3つ目の文脈はアンソロジストが、それぞれ担い手となる。3つの文脈はそれぞれに相互作用を及ぼしあって、ひとつのアンソロジィとして成立しているのである。
ここで本稿で用いる社会の定義を思い出してみよう。それぞれの担い手に対してそれぞれが相互作用を及ぼしあっているのだから、アンソロジィはアンソロジィというだけで十分「社会」として成立していると言えるだろう。
しかし、この3つの文脈——「社会」には決定的に忘れ去られた存在がある。「読者」だ。
では、既に「社会」として成立しているアンソロジィに対して、「読者」はどのように影響しているのだろうか?
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続きます。これぐらいのペースならなんとか毎日書けない気もしないではない。っていうか、事例はいつになったら取り扱うんだ?<自分